「修身斉家治国平天下」という言葉を知っていますか?
これは論語と並ぶ儒学の教本である「大学」に出てくる言葉です。
私は当初は論語だけを読んでいました。とても役に立つ言葉が多く、それはそれでいいものでした。
でも、ふと思ったんです。
「論語って、そもそも何を言わんとしているのかな?」と。
そんな疑問を持っていたら、どうやら「大学」を読むと論語の精神がわかるようだと気付きました。
で、早速読んでみたら、なるほど、論語の精神はこういうことかと言うのがわかりだしたんです。
ちなみに、私の中の解釈では、論語はQ&A集、大学は教科書、となっています。
で、論語の精神は何かというと、その一つが冒頭で紹介した言葉だと思うんです。
「修身斉家治国平天下」です。
これは国を治める人の心構えと説いたものと考えてもらえばよくて、その意味は、まず自分の行いを正しくし、次に家庭をととのえ、次に国家を治め、そして天下を平和にすべきである、と一般的に言われています。
確かにそうだな、と思っていたのですが、別の見方があることを知ったら、そっちの方が、私にはしっくりきました。
どの本かは思い出せないのですが、東洋思想の大家である安岡正篤先生の本で見かけました。
どんな解釈かと言うと、自分の行いが正しいということは、家庭が整っているということであり、国が治まっていることである、したがって、天下も平和である、ということです。
東洋思想の知行合一ともつながる解釈です。
一般的な解釈だと、修身⇒斉家⇒治国⇒平天下という時系列と言うか、対象の広がり、があります。
修身ができてから斉家、治国、平天下に繋がっていくことになります。
でも、修身、つまり自分の行いを正しくすることって、そんなにすぐにできることじゃないですし、できたときがあっても、できなくなるときもあります。
てことは、その次にある、斉家、つなり、家庭が整うのに繋がるのがいつになるのかがわからないですし、ましてや、国が治まるなんて、もってのほか。
ということは、「修身斉家治国平天下」という論語の精神が、理想ではなく、理想をはるかに超えた空想や妄想になってしまいます。
これだと、果たしてこの言葉が役に立つのか、そんな疑問を持たざるを得ません。
これに対して、安岡先生の解釈だと、修身=斉家=治国=平天下という等式が成立するというか、同時性があるということです。
ということは、天下が平和だということは、国が治まっていることで、家も整っている、ひいては、自分の行いが正しいんだ、と考えることができます。
逆に考えれば、天下が平和ではない、あるいは、国が治まっていない、または、家が整っていないのであれば、それはすなわち、自分の行いが正しくないんだということになります。
天下や国、家の状況を見て、我が身を振り返れ、ということです。その結果、自分の行いをより正しくしようという心構えを持つことができ、行いを改めることができるようになります。
これだと役に立ちますよね。論語の「吾日に吾が身を三省す」という言葉にもつながりますし。